[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
『ありがとう』の破壊力の大きさ故、私の中ではやや扱いが小さくなってしまったカップリング曲。
こういう根暗さって、スキマ曲には非常に薄いテイストですが、0でないと思うのはやはり大橋くん自身が持つ要素に違いないからなんだろうなぁ。常田さん色とは全く異質な気がします。常田さんが書く『きみがいいなら』とか『ズラチナルーカ』の系統には、「君」とか「世界」とか、相手がいるんですけども、こっちの対象は内省的な自分だと思うので。
スキマが意識的に相手を持つものを歌っているのか、2人の着地(妥協)点が自然とそこだったのかははわからないけれども、そう言う意味では非常にソロらしい曲ではあります。良くも悪くも自己満足なのかなぁと。
雑誌のインタビューでも言っていましたが、これは別に大橋くんがミュージシャンと言う特異な生業であるからではなく、誰でも持っているネガティブさなんですよね。極々少数の人を除いて、その不在が絶望的な混沌や危機、永続的な悲しみを招くなんてことはないし、ある種の当たり前さとして受け止められるのだけれど、じゃあ「現在」は何なの?と思う。
ただ、極端な例え話になるけれど、何十年も会っていない生き別れた家族を探すのは何故か? 別に会えなくても困らないけれど、会いたいと思うのは何故か? 世界は家族や友達ですら「自分でない」他人の集まりで、孤独で、冷たい世界だけれど、関係性の持つ熱が個々の他人を繋いでいく。
この歌を作り、歌う大橋くんに「世界は冷たくない」とは言わないけれど、少なくともこうして彼の音楽を聴いている私は、それによって生じる熱を愛おしく思う。彼の言葉どおり、もしかしたらいつか冷めてしまう熱かもしれないけれど、そのために存在した時間は、必ず大切すると約束できるから。